楊貴妃は、クレオパトラ、小野小町と共に、世界三大美女の一人として有名な美貌の持ち主です。

楊貴妃は、「傾国の美女」と形容されるように、彼女の美貌で玄宗皇帝を虜にし、皇帝が毎日楊貴妃のところに通い、政治を疎かにしたため、反乱が起き、王朝が倒れてしまったと言われています

一つの国をも滅ぼしてしまった、歴史に残る美貌の女性 楊貴妃。彼女はどのような生涯を送った人だったのでしょう。同じ女性として、彼女の生涯に興味を持ち、調べてみました。
唐の時代、四川省で生まれます。

楊貴妃は、中国 唐の時代四川省にて、生れました。(719年)
実父は、県の戸籍係りをしていましたが、早逝したため、叔父に育てられました。

最初の結婚は、玄宗皇帝の息子 寿王と結ばれます。
玄宗皇帝が寵愛した武恵妃が亡くなり、皇帝は深く哀しみ、失意の中、毎日のように武恵妃を偲ぶ音楽を奏で、心を癒しておられました。

朝廷思いの軍人が、皇帝を慰めるべく、美貌に名高い楊貴妃に会わせるように計らいました。
運命のラブロマンスの始まりです。

740年の秋 長安郊外の温泉保養地 華清池で始めて二人は出会い、玄宗皇帝は楊貴妃の魅力の虜となり、二人のラブロマンスが始まります。
玄宗皇帝56才、楊貴妃22才でした。
いくら皇帝と言っても、息子の嫁をとりあげて、妃にすることは世間体もあり、気がひけました。そこで、小細工を思いつき、まず、彼女を導観(道教の寺)に入れ、尼にします。つまり、彼女の自由意志で、夫の寿王と離婚したいという形をとりました。
745年、皇帝は正式に彼女に「貴妃」の称号を称え、後宮に迎え入れました。
皇帝のご寵愛ぶりは、たいそうなもので、後宮 3000人の美女には 目もくれず、楊貴妃可愛さに、彼女の一族を政治の重鎮に置き、彼女の 望む事はなんでも叶えさせてあげました。
楊貴妃の美の源となりました。

楊貴妃は、果物(れいし=ライチ)が好きだったことは、有名です。 玄宗皇帝は、長安から何千キロも離れた、ライチがおいしいという広東 地方から、早馬を走らせてまで、愛する楊貴妃のために取り寄せたと 語り継がれています。